「すこやかな時も病める時も」
結婚を考えている人は、ぜひ一読してほしい本です。
今回はオススメの本の紹介をしようと思ったら、もう販売されていなかった。
イマサラ本あるあるです。
それでも、ストーリーをほんの少し紹介しながら、「愛」について考えてみたいと思います。
すこやかな時も病める時も どんな本?
一言で言うと…
「アルツハイマーにかかった妻の介護をする夫の話」です。
けれど、これは介護の本ではありません。
著者自身(主人公でもある)がこう言っています。
私が愛する者を介護するという道を選んだことが、唯一の正しい道であるという印象を与えてしまうのではないか~。
そういった誤解は、いろんな事情で、私がしたようにはできなかった多くの人々を、断罪したり、容易に罪責感におとしいれたりするでしょう。
私はただ、「私」の物語を語っているのです。~
決して介護しなければならないという「予定表」を押し付けているわけではありません。
著者は、アルツハイマーと診断された妻に寄り添うことを選びます。
けれど、この話は決して「愛しているなら介護しろ」と言う話ではないのです。
日本語の題名は「すこやかな時も病める時も」ですが、
英語の原題は、「A LOVE STORY」
つまり、二人の愛の物語なのです。
(初版は「誓約に生きる」みたいな題名だった)
もう出版されていない本なので、読んでくださいとオススメすることはできません。残念だ…。本当に残念。
ですから、マメムがどうしてこの本をオススメしたかったのか、この本を通して心を刺されたことを中心に記事をマトメたいと思います。
愛するとはどういうことか?
「健やかなる時も病める時も~」って、たいていの人が聞いたことありますよね。
結婚式を教会で挙げた人なら、自分の口で誓ったこともあるのでは?
健康で何でもないときだけではなくて、病の時、困難な時、いかなる時も、死が二人を別つまで…。
そういうの、その場だけって思うよね。
たいていそう。
それが、この旦那さんは違うのよ。
決断は42年前に行われていた。
妻(以下ミリエル)の介護のために職を辞する決意を旦那(以下ロバート)はするのです。
周りの人は反対しました。
でもロバートは言うのです。
ある意味では、この決断は42年前に行われていたともいえるのです。
つまり、結婚式で誓いの言葉を述べた「あの時」すでにこの決断は終わっていたということです。
あの結婚式の誓いを…
セレモニーのセリフを…。
もちろん、結婚式の日は、多かれ少なかれ、みな、目の前にいるこの人を生涯、心から愛そうと思うでしょう。
ただのセレモニーのセリフだなんて、その時には思わないでしょう。
だけど…。
思うのです。
自分をかえりみた時、本当に相手が少しずつ変わっていく、その変化を目の当たりにして、それでも生涯変わらず愛し続けることができるだろうか?
それも、嫌々とか、強いられてではない、その決断を、心から喜んでホコリとすることができるだろうか?
私は、それほど深く誰かを愛しているだろうか?
マメムの知り合いは、その昔、こう言いました。
「ねえ、今まで生きてきて、本当に心底、人のこと好きになったことある?」
マメムは、その時、あまり深く考えずに「あると思う。」と答えました。
「うらやまし…わたし、そういうのないわ。」
人を心底愛したいという欲求は、もしかすると誰でも持っているのかもしれません。
愛されたいという欲求と同じくらい愛したいという欲求があると思うのです。
条件付きの愛、「もしもこうだったら」「先にこうしてくれたら」ではなくて、無条件の愛、「たとえそうでなくても」「まったくそうでなくても」、誰かを愛したい。
ロバートは、42年前の誓いに誠実でした。
彼の愛は言葉だけではなく、行いを伴うものでした。
彼は行いと真実を持って愛しました。
彼の愛が、どれぐらい満ち溢れていたか分かるエピソードを一つ。
飛行機で近くに座っていた女性とロバートの会話です。
彼女は、書類から目を上げもせず、何か言いました。そばに誰もいなかったので、たぶん、私に何か言おうとしたのか、少なくとも、私たちの何度も繰り返される行動に抗議のことばをつぶやいたのだと思いました。
「申し訳ありませんが、なんとおっしゃいましたか?」私は尋ねました。
「ああ」彼女は言いました。
「私、独り言を申しましたの。あんなふうに私を愛してくれる男性を私は見つけられるかしらって。」
見ず知らずの女性が、うらやましいと思うほどロバートはミリエルを愛しました。
人は人をどれほど深く愛することができるのだろう。
マメムも、それほどまでに愛してみたいと思うのです。
培ってきたものが品性としてあらわれる
ミリエルの話も少しさせてください。
もう意味のある言葉をあまり発することのできなくなったミリエルが、唯一、発することのできた言葉、それは…
「I love you」
「愛しているわ」
日に何度も何度も繰り返し。
どれぐらいミリエルがロバートを愛していたかというエピソードを一つ。
まだロバートが仕事をしながら介護を続けていた時、ロバートのいないことに気が付くとミリエルは、彼を追って職場まで来てしまうのです。
日に何度も職場まで約2キロの距離を歩いて。
彼女は一日10回以上往復しました。少なくとも20キロは歩いたのです。
ほぼ毎日。
夜、彼女の着替えを手伝っていると、足に血がにじんでいるのを見つけることもたびたびであった。
私たちのホームドクターにそのことを話したとき、彼は声を詰まらせ、一言、「そんなに愛しているの…」とだけ言った。
そして、しばらくしてこう言った。
「永年、培われた品性が、こういう場面で出てくるものだと、私は考えているんです。
永年培われた品性。
ミリエルのそれは、ロバートに対する愛でした。
永年、彼だけを愛してきた思いがこういう場面であふれたのです。
マメムが、知っているある認知症の患者さんは、元小学校の先生でした。
「先生」と呼ぶと、どんな状態のときでも、シャキッとして「はい。」と返事をしてくださいました。そして、「どうですか? 大丈夫ですか?」とこちらを気遣うような声掛けを逆にしてくださるのです。
確かに認知機能は衰えていて、自分のこともままならない状態ではありましたが、なんとも上品な素敵な方でした。学校の先生としての自分に誇りをもってらしたんだな、こうやって生徒を気遣って生きて来られたんだな、生き方って最後にちゃんと現われるんだなと感動したものでした。
永年培われてきたもの。
私は、今、何を培いながら生きてるだろうか?
最後の最後まで必死になって探し求めるほどの愛?
どんな状態でも人を気遣える品性?
最後に自分の理性?みたいなものが、もし無くなってしまったとしたら…、
私の内側からは、いったいどんなものが現れるんだろう?
今、この瞬間の積み重ねが、後の日の私を造っている。
私の品性は、どんな風に培われているんだろう。
なんだか考えさせられます…。
ある愛の物語。まとめ。
これは、介護がメインの話ではなく「愛の物語」です。
どれほど深く誰かを愛せるか?
どれほど深く誰かに愛されるか?
年齢を重ねても、いえ、重ねたからこそ現わされる愛。
そういう風に生きることができればいいなと本当に思わされます。
最後にロバートの書いた詩の一節を。
今や、人生はもっと易しくなった。
私たちの人生をつづり合わせることばの糸はすでにない。
ことばのない愛こそ私たちの拠り所。
私たちのたましいの感動はさらに深く、優しくなる。
嵐に立ち向かい打ちのめされながらも、炎をくぐりぬけて愛は純粋になった。
Speak soon,enjoy the rest of your day.
またお会いしましょう。良い日々を!
引用は、すべて以下の本からです。
書籍:「すこやかな時も病める時も」
著者:ロバートソン・マルキン
出版社: いのちのことば社フォレストブックス (2003/9/1)